モモの読書感想文048~『死の講義』橋爪大三郎
こんばんは。 モモです。
今日の晩ごはんは炊き込みご飯。
炊飯中に更新しています。
今回の読書感想文は・・・
『死の講義』 著:橋爪大三郎
難しい言葉や言い回しがないので、とにかくわかりやすく楽に読めます。
読者に寄り添うような優しい文章で、穏やかな雰囲気の本です。
とはいえ内容は考えさせられることが多く・・・何度も手を止めながら、何日かに分けて読みましたよ。
この本を読むと・・・
・死んだらどうなるかを自分で決めることができる
・世界と自分の成り立ちがわかる
・ささいなことで悩まなくなる
そのほか、私が「死」についてあれこれ述べている記事はこちら。
いつも「死」について考えているヤバイやつ。
そう思われますか? うん、合ってる。
メメント・モリシリーズとでも呼びましょうか(早速タグ付けしてみた)、とにかく「死」が気になって気になって仕方ないのです。一回経験してみるわけにもいかないし、答えはわからないまま死ぬわけ。なんてこと・・・
でも「死」について考えるなんて元気な証拠です。
いざ直面したら、あれこれ考えている時間も余裕もないに違いないですから。
前回の感想文はこちら。
「死ぬ」ってどういうこと?
死ぬということは、
ものを考える「このわたし」が存在しなくなることだ
「死」っていったい何なのか。
それは絶対に、誰にも知り尽くすことができない。
なぜなら、経験した人はすべて存在しなくなるからだ。
というかそもそも、私たちって存在するのだろうか?
大昔の人間は、小さなコミュニティのなかで生活していました。
生き方の多様性がないから、死に方もみんな同じようなものだった。
がんで死のうが、肺炎で死のうが、心筋梗塞で死のうが、わからなければみんな同じように見えていたかもしれない。知らなければ、無いのと同じ。
でも現代に生きる私たちには無数の選択肢があって、様々な生き方をしている人がいて、あらゆる知識がある。
だから、「死」に対する考え方もバラエティが出てくる。多くは宗教を拠り所に、死に方や死後の世界に対する考え方が生まれたわけです。
つまり現代人の私たちは、死んだらどうなるかは自分で選べるのです。
どうせ「死」は私たちが経験できる範囲をはみ出しているのだから、死んだらどうなるかは自分で決めればいい。
とはいえ…だから迷うし悩むってことなんだろうけどね。
人間の精神の実態とは?
人間は実は人間ではなく、ただの因果連関である
真理を覚れば、人間(生き物)は、人間(生き物)でないとわかる
人間の思想や感情、いわゆる魂と言われるものってとても崇高な感じがします。
でも実はすべて電気信号のやりとりだし、元はたんぱく質でできているって何かの本で読んだことがあります。
だとすれば私たちが目にしているこの世界が本当に存在するかどうかすら、怪しい。
すべてが妄想で、自分が死んだ瞬間に世界がすべて消えてなくなるかもしれない。(こういうことを考え出すと寝れない)
「世界」と「自分」は同じ
世界と自分も、集合としては異なるが、なかみはそっくり、になっている。
ここ読んだとき、「そう!そうなの!!」って頭ぶんぶん振りたくなった。
わたしたちは日々無数のことを考えたり思い浮かべたりしていて、自分と他人は違うって思いこんでいるけれど、極端にマクロ(巨大)に、もしくはミクロ(微小)に見てみると、実はみんな同じかたちをしているんじゃないかって。
そして、それはもちろん人間のなかみだけではなくて世界そのものも同じなんじゃないかって。細胞のひとつひとつは世界そのものなんじゃないかって。
数学でやった図形の相似みたいに、スケールはちがうけど比率は同じ。
口の横の、口角のところに、小さな街ができますように
これはもちろん本書の引用ではなく!
バナナマンの設楽さんがラジオで言っていた七夕の願い事です。長年バナナマンのラジオ聴いている中でも結構お気に入りのフレーズ。
だってわたしたちって実は、何かとてつもなく大きい生物の口角に住んでいるかもしれないじゃない? その可能性って誰にも否定できないじゃない? 設楽さんって天才じゃない?
ささいなことで悩むのはやめよう
人の悩みのほとんどは、人間関係だそうです。
どうしようもなく悩んだときは、どうせ100年後にはみんな死んでる…と思うようにしているよ!
それでは、また。
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