好きなものの話~「無口な人」
こんにちは! モモです。
読書感想文カテゴリのビュー数が伸びてきました。
夏休み後半だなぁ。毎年この時季だけ、ちょっぴり伸びます。
今年は『コンビニ人間』の感想文が多く読まれています。
課題図書か何かになったのかしら?
さて、本題の好きなものの話。
(「好きなものシリーズ」とは、モモが好きなものについて「なぜ?」「なぜ好きなのかしら?」としつこく掘り下げて納得したらおわり、という謎のシリーズである)
無口な人が好きだということに、最近気がつきました。
でもこの場合の「好き」ってちょっと特殊で、たとえば無口な友達って全然好きじゃない。
無口な同僚とかも、たぶんちょっと困る。私も積極的に話すほうじゃないからどうしたらいいかわからなくなる。
ゆうき君も家ではほとんど口を開かないけど、これも全然良くない、さみしい。笑
つまり、自分と切り離されたまったく関係ない存在っていう前提があっての「無口」に対して、
あ、好きだなと感じる。ということ。
たとえば好きな色ってみんなそれぞれあると思うのですが
好きな色と、よく着る服の色ってたぶん切り離していますよね。
私はコーラルとか薄桃色がすごく好きだけれど、そんな色の服はほとんど着ない。
それと同じで、実際に接するにはおしゃべりな人のほうがいい(快適)けれど
それが゛好き゛かというとそれはまた別の問題なのですね。
そうそう、この間、西武池袋本店で開催されていた種村有菜原画展に行って思い出したのですが
昔好きだったキャラクターは『時空異邦人KYOKO』の憂ちゃんと『紳士同盟✝』の潮ちゃん。
どちらもかなり無口(憂ちゃんに至っては全編通してほとんど眠ってる)。
で、なぜ無口な人が好きなのか? と考えてみたのですが
私にとっての「無口」の魅力は、想像の余地が広いところにあると思い至りました。
どういうことかというと、無口な人って何考えてるかわからないじゃないですか。
だから、こっちが勝手に脳内補完できる範囲がすごく広いのですよね。
そのうえ私はよく知らない人や初対面の人に対して゛この人はきっと良い人゛と思い込んで接する節があるんです。性善説派というか。
この人あんまりしゃべらないなぁ。きっとこんなこと考えているんだろうなぁ。
の、「こんな」に、良いイメージを勝手にあてはめられる。
マスクしてるとすっごい美人、みたいなのと同じで。
相手からの自己開示が無い分、自分の良いように作り上げられるから、嫌いな要素を持たないわけだ。
なるほど、無口って実はお得かも。
でもこの思い込みに実は苦しめられている部分もあるなぁって気づきました。
口数は少ないほうが良いっていう無意識の設定?みたいなものがあるせいか
友達と話していて少しでも自分が話しすぎると途端に罪悪感が湧くんです。
あ、しゃべりすぎちゃった! って。
その点ブログはいいですね。
言いたいことが好きなだけ書けるし、読むかどうかは受け手が選べばいい。
しかもどうせほとんど誰も見ていない。(笑)
それでは、またそのうち書きますね。
気が向いたら読んでください( ´ ▽ ` )ノ