今年一番の衝撃(かもしれない)~デレク・ハートフィールドは実在しない
こんばんは。モモです。
今年一番の衝撃かもしれない出来事について。
良いお天気だった先週の土曜日、出かける準備をしていて、いつものようにKindleを手に取ったけれどなんとなく紙の本を読みたい気分だったので久しぶりに本棚をのぞいた。
並んだ本の上の隙間から手を突っ込んで、奥の列(小さい本棚なので前後に2列に並べている)から適当に取り出したこの本。
『風の歌を聴け』 著:村上春樹
私だけかもしれないけど、村上春樹さんの作品って表紙を見ても内容をいまいち思い出せないものが多い。ストーリー性が希薄だからかもしれないし、きちんと腑に落ちるまでに何度も何年も読み返す必要があるせいかもしれない。
だから村上春樹の中からどれを読むか選ぶときは一度ぱらぱらとめくって2,3ページ読んでみる必要があって、いつもそれに10分以上かかるのだけれど、この本はとても薄くて軽いから小さめのバッグを持つようなちょっとしたお出かけにちょうどいい、という理由で読み返すことなくブックカバーをかけた。
都心から離れていく電車は空いていて、座席に座るなりさっそく表紙をめくった。
書き出しはこうだ。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
安定のキザ。
しばらく読み進めていると、記憶がだんだん蘇ってきた。
そうそう、たしかこれは、デレク・ハートフィールドが出てくる話だ。
僕は文章についての多くをデレク・ハートフィールドに学んだ。殆ど全部、というべきかもしれない。不幸なことにハートフィールド自身は全ての意味で不毛な作家であった。読めばわかる。文章は読み辛く、ストーリーは出鱈目であり、テーマは稚拙だった。しかしそれにもかかわらず、彼は文章を武器として闘うことができる数少ない非凡な作家の一人でもあった。(中略)
8年と2ヶ月、彼はその不毛な闘いを続けそして死んだ。1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りたのだ。
三島由紀夫の死に様を知ったとき、無性に彼の作品を読みたくなった。自分の意思を表明するために割腹自殺をやってのける男の、頭の中が知りたかった。考えていること、ものの感じ方を覗いてみたくなった。
となると俄然、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りた男の作品も読まずにはいられない。
どうせ死ぬのになぜ傘をさしているのか、なぜヒットラーなのか、あれ、そもそもその日は晴れていたって? 意味が分からない。読むしかない。
すぐにiPhoneを取り出してAmazonを開いて愕然とした。
い、いない…
デレク・ハートフィールド、存在しない…
でも、確かこのあとも何度もハートフィールドの作品の引用があったはずだし、あとがきではハイヒールの踵ほどの大きさのハートフィールドの墓を訪れたと書いてあったはずなのに…
この本を買ったのは高校生の時で、ろくにハイヒールを履いたことがなかった当時の私は「外国人のハイヒールって踵太いんだぁ」と的外れなことを思ったものだった。なのにすべてでっちあげだった? あとがきまでフィクションだった? 村上春樹こわい。
作家って、やっぱり変! とニヤニヤした昼下がり。
今年一番(ではないと思うけど)の衝撃を受けた話でした。
それでは、また。