書くことと話すこと
こんばんは。またまたモモです。
ゆうきくんは全然ブログを書かないね、
彼ほど熱しやすく冷めやすい人を、私は他に見たことがないよ。
たとえば頭の中に何かが浮かんだときに、
「話す」と「書く」のどちらがより正確にその「何か」をアウトプットできるか?
というのは人によって違う。
私は「話す」ことで伝えるのが苦手だということに社会人になって初めて気がついた。
真剣に働いていると、ときどき自分も知らなかった自分を発見することがあるものだ。
私は仕事柄、社員から電話で問い合わせを受けることが多いのだけれど
受話器を置いた後に自分がきちんと伝えるべきことを伝えられたのかが心配になって、結局
「先ほどお電話いただいた件、念のためメールでもお伝えしておきます」と
かちゃかちゃとキーボードに向かうことがある。
とはいえ仕事の上では「正しいことを正しく」伝えればいいだけので、それほど困らないのだが
個人的な会話となるともちろん話は違ってくる。
同僚や友だちとの会話で、言いたいことがうまく伝わってないと感じるとき。
自分の頭の中にあるものと、相手に伝わっている内容とが乖離していると感じるとき。
口から出る言葉は、私の味方をしてくれない。
私は思っていることを確実にとらえて離しているつもりでも、それは口から出たとたんにちょっと違うものになってしまう。
質の良いマニキュアみたいに空気に触れるそばから固まりだすと、瓶の中に入っていた時とは微妙に違った色合いになる。
その微妙な違いが、きちんと伝わっていない、とわかってしまうのは悲しい。そしてわからないというのはもっと悲しい。だから話すことは難しいと感じるのです。
その点、文章はすごい。
書いていると、言葉たちが頭に埋まっている言葉をするする掘り出してくれる。
ほんとうの伝えたいことは、いつもそうして登場してくるのだなぁと思うと、楽しい。
それに、何故だかはわからないけれど、一旦文字に起こしたものについては伝わろうが伝わらまいがどちらでもいいと思えるので、心安らかにいられる。
伝えてから伝わるまでのタイムラグのせい?
ともあれ、心安らかというのはとても大事なことです。
言葉は人によって話されたり書かれたりするけれども、
実のところ、主語は逆なのかもしれない。
人は言葉によって話させられ、書かされているだけなのだと。
そう思うと、人を傷つけるようなことを意識的に言う人がどれだけ恐ろしいかわかるね。
自分を貶めるようなことばかり言う人がどれだけ危ないか、わかるね。
それでは、また。